HSPについて最近思ってること。

昨今よく目に耳にするようになった「HSP」の存在。

私がHSPという概念に出会ったのは、4年前の2015年、体調を崩して4年後のことである。当時はまだ、知る人ぞ知る感が強かった。

エイレン・N・アーロン氏が『The Highly Sensitive Person』を出版したのが1996年(邦訳されたのは2000年)。HSPが提唱されてから私がそれを知るに至るまで、15年以上は経っている。

が、もっと早く知りたかったとは思わない。自我喪失でぼんやり生きていた情報収集力ゼロの日本人の若者(自分でそう言っちゃう)にしては最短で知れたと思っているからだ。無事HSPの概念を受け取れたこと、その恩恵は計り知れない。

どうせだからその恩恵を大きく分けて3つ、書いてみる。

 
①楽になった。
知るだけで楽になれる。ホントに、これが一番大きい。「自分は頭がおかしいんじゃないだろうか」という漠然とした不安から解放される。病気じゃなくて気質なんだと知れてホッとする。敏感な自分を許せる。
②人との付き合い方が良い方に変わった。
一人の時間をどのように過ごすか。自分の味方でいるとはどういうことか。自分に対して使う時間はどのくらいあったらいいか。自分の居場所の整え方をどうしたらいいか。これらの問題を整理できるようになるので、人と心地よく接することができるようになった。まあ、もちろん苦労することの方が多いけれど。
③自分軸を作り出すきっかけとなった。
ほとんど②と同意なのかもしれない。自分との向き合い方がわかるようになったおかげで自分軸というものにはじめて気づけた。自分軸があってはじめて自分の人生が始まるのだと、なんていうか、開眼した感じだ。

 

こうやって書くと、大げさだなあという気もするが実際、私の人生2015年ぐらいから大げさに変わってきたように思う。人からはそう見えなくても分からなくても、自分の中身がどんどん変わって成長していけたような。感じる心に対してそれを表現できるようになってきたから、捌け口ができてきたというか。

それを最近実感するのは、読書における自分の読解力に対してだったりする。

この間なんか、梶井基次郎の『檸檬』を読んでまさかここまで理解できるようになったとはって自分で自分に感動しちゃった。高校のころ読んだってなんにも分かんなかったのに。あと、『銀の匙』を書いた中勘助は確実にHSPだと思うのですがみなさんどう思いますか。あの瑞々しく弾力のあるユーモアな文章にはHSPの何も知らなくたってみな衝撃を受けるだろうけど、あの自然へのまなざしはHSPがもつ視点そのままだと思う。私たちはああいうものの見方をする。

 

ところでなぜHSPについて書こうと思ったかというと、

養老先生の『神は詳細に宿る』を読んで少し思うことがあったからである。

 

神は詳細に宿る

神は詳細に宿る

 

 

この本はどうジャンル分けしたらいいのか分からないが、コラム集とでもいうか?近年養老先生がいろんな媒体で書いた文章たちを集めた本で、ここで主に話されているのは「環境」「意識」「感覚」「言葉」についてのことだった。私には自分とは何かを考える上での材料になった。

思いっきり文系に振り切ってしまっている自分には時々こういう理系の頭でなされた世界の解釈が必要であると感じる。ひしひしと感じる。頭が悪いから、頭がいい人の言うことを聞いてなるほどと思う(笑)。理系の世界には、身も蓋もなくて救いがないような感じと、一本の道を照らしてくれるような間違いのなさと心強さを感じて常に新しい。

というのはどうでもよく(いいんかい)

唯脳論(知らない人は出直してきてください…というのは冗談ですが知ってる体で書いちゃいますのでご勘弁)をもとに先生はずっと「感覚を取り戻せよ」と言っている。日本人だけに限らず世界中の人たちが「意識」だけで生きるようになってしまった、それでは世界が、人間がだめになると言っている。言われて気づいた。そっか!現代人(つまり身の周りの人たち)って感覚を鈍くして生きてるんだ!って。感覚を鈍くしなきゃ生きていけないような世界を今も人間たちは創り続けているんだなって。

ここでHSPの存在が浮き彫りになる。(なお、勝手に浮き彫りにしたのは私であり、本書のなかでHSPの話など出てこない。というか先生がHSPを知っているのか知らない。)

感覚を鈍くする、というのはHSPにとってはまず無理な話だ。聞かないようにする見えないようにする、感じないようにする。そうしようと思えば私たちはまず体調を崩す。病気になる。かつて(なんなら若干今も)の私である。この本から自分が知れたことはごくごく一部のことだろうが、HSPがこの世で生きづらいワケがこれを読んではっきりした気がする。

ところで、私がHSPを知るきっかけとなった本*1には、HSPの敏感さは生物の生存戦略であったと書かれている。「人間に有害なものとしてHSPが多くの人より早めに拒否反応を示すことによって、社会に早期に警鐘を鳴らすという一種のカナリア的役割をはたしているのかもしれません」とのこと。ここで昨今のHSPの認知度の高さを思い出してみてほしい。ああ、なんだがこの広まり様はただ事ではないような気がする。胸がざわざわする。(笑)

一人一人に情報が行き渡るようになったことの表れだけではないと思う。日本中の敏感な人たちがHSPとしての生きづらさを訴えているということは、この社会に対する拒否反応を示しているのだと思う。このままじゃ日本やべえぞ、と。政治の在り方がやべえ。経済の在り方がやべえ。日本の同調圧力がやべえ。やべえことだけは感じてる。そもそもHSPはアンテナそのものみたいな所あるし。問題は、HSPの感じるこの生きづらさを、世間の異常さを、どう社会に訴えるかだ。どう警鐘を鳴らして、鈍感になってしまった人達に気づいてもらうかだ。このままHSPという概念が広まれば伝わるだろうか?正しく伝わりそうか、私にはあまり自信がない。

養老先生が言う「感覚を取り戻せ」。この声を引き継ぐのはもしかしたらHSPである自分たちなのかもしれない。HSPの気質を自分の中に抱えながらできることは、この世界に適応できるよう努力することではなく、「どうやったって適応できない我々がこんなにいるよ」と主張し続けることなのかも知れない。そうすればきっと、人間はコンクリートだらけの世界を手放せるようになる。豊かさを取り戻せる。なんて考えてみたりしたのだが、どうだろう。敏感さは強さにはならないのだろうか。

 

とはいえ、まずは一日一日を少しでも穏やかに過ごせるようになることが当面の目標で、それは同じHSP仲間にとってもそうだろうと思う。HSPの人はしばしば非HSPに対して敵意さえ持って生きづらさを主張する。紛争だ。自分と他人の範囲を分かってないHSPが同じHSPに対しても攻撃する。いつもどこかで緊張しているからそうなるのだと思う。自分がHSPだと気づいたら、まずHSPという概念をどう自分に活かすかを考えてほしい。間違っても人を攻撃する原因にしてはいけない。HSPの気質をそのまま自我と勘違いしてもいけない。そもそも、そんなことをしている場合ではない。今日の自分と大切な人のために生きれるようになること。そんな心がけの積み重ねが日本の明るい将来を創り出すのかもしれない。

 

 

 

*1:

 2015年、私はこの本に二度出会った。本屋でチラ見した8か月後とかぐらいに、人から「あなたはこれだと思うんだよね」と手渡された。これでしたね。ちなみに私が持つ&読んだHSPに関する書籍はこれのみであり、あとの情報はネットから入手してきた。ここ数年はHSPに関する情報はあまり取り入れていない。必要を感じないので。

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