あかりのまわり

回復するブログ


元気のチャージ場所がほしい

 

元気のチャージ場所であったTSUT〇YAが移転した。

あそこで品揃えの良いレンタルDVD棚を眺めるのがすごく好きだった。古本コーナーでは時間を忘れていつまでも本の世界に浸っていられた。あそこにいるだけでイキイキして幸せな気持ちになった。

昨日、移転先に足を運んでみた。

職場から遠すぎて歩き疲れてしまった私を待っていたのは、変わり果てたTSUTAY〇だった。

見てから分かった。好きだったあの雰囲気はたとえ同じ店であっても、あの場所、あの空間でしか成り立たないものだったのだと。

 

先日こころ旅(知らない人のために説明すると、視聴者の心に残っている風景を火野正平がチャリで訪れるというほのぼの旅番組)で、こんな投稿をしている視聴者がいた。

場所はよく見てなかったので分からないが、とにかくやたらとデッッッカイ岩のある場所があって、そこがその人のこころの風景だそうで、曰く

"この石の重みを感じて、自分がちっぽけな存在であることを再認識することで、何度も元気をもらえた場所です。"

とのことだった。

想像した石の重みで・・・・・・・・・。

ご飯を食べながら耳だけ傾けていた私だったが、思わず「なんて平和…」と呟いてしまった。自己回復する方法はこうでなくっちゃ。そうだ、元気のチャージ場所も、このように不動のものでなければ。とも思った。

 

 

それにしても。

自分に最適な場所を探すというのは、自分を生きていなければ出来ないことだ。

他人軸で生きていたとき、自分の中の基準というものは尽く失われていたため、自分にとってどんな場所が心地良いのか、どんな場所から元気をもらえるのかなんて何もかも分からなかった。

身を置く場所を、選んでもいなかった。

身近なところで例を挙げるとするならば

ガラガラに空いた電車に座っている時、なぜか自分の隣に座ってくる距離感のオカシイ人とか 急に部屋に入ってきた騒々しい集団とか 隣のテーブルで怒ってる赤の他人とか、まあその他嫌な影響を与えてくる人とかから

身も心も逃れられなかったりした。その場から離れるという選択がはなから無く、耐えるだけだった。

相手がどう思うかを気にしすぎていたからである。相手の視線に怯えていると、今移動するのはあからさますぎだろうか?などと考えているうちに身動きが取れなくなるのだ。

 

突如居心地が悪くなったとしてもそれは災難として甘んじて受け入れ、我慢するしかないものだと思い込んでいた。

 

(このような人間の、タチの悪いところは、他人は自分のことをそれほど見ていないし気にも留めてないということを知っていることだ。本当の意味では分かっていないのに。)

 

 

後に自分軸を取り戻したとき

親も間違いを犯すただの一人の人間なのだと気づいたときと同じように

自分の居場所は自分で決めていいのだということに、新たな世界を見出すくらいの感動をもって気づいた。

それからさらに

元気のチャージ場所というのは自分を取り戻すところでもあり

周りに影響されて染まりやすく振り回されやすい自分には、自分にかえれる場所というのが必要で、そのような場所は家のほかにも何か所もあったほうが望ましいことにも気がついたのである。

めでたしめでたし。(?)

 

さて、新たな元気のチャージ場所を発見すべき時が来た。

ごみごみした街中の隙間をずんずん縫って歩いて、五感をフル稼働させて、宝物みたいな場所を見つけてやるのだ!などと意気込みつつ、

明日からの連休中には街中に極力近づきたくないのが本音である。

それではみなさま、よいGWを。